全長1.78メートルの世界

>> HOME > 逆転裁判 > PREV

 

 甲高い電子音で意識が浮上した。
 半分以上眠ったまま、枕元をまさぐる。目覚まし時計を探り当てる前に音は止まった。
「ん?」
 落ちそうな意識を無理矢理繋ぎとめて瞼をこじ開ける。
 確かにここは自分の部屋なのに、寝る前とは随分変わっていた。
 空気が暖かい。足の踏み場もなかった部屋が片付けられている。台所のコンロで雪平鍋がコトコトと鳴っていた。
 とても馴染みのある人の気配に身じろぐと、額のタオルがずり落ちた。

「…おかあ、さん?」

 そんな訳はないのに、思わず呼び掛けてしまう。

「期待に添えずすまんな」

 苦笑しながら洗面所から出て来たのは御剣だった。
 プラスチックの洗濯カゴを抱えている。さっきの音は目覚まし時計じゃなく、洗濯機の終了音だったらしい。
 同時に、病院でのことも思い出した。部屋に戻ってきているということは、連れ帰ってきてくれたんだな。
「気分はどうだ?」
 枕元に座って視線を合わせた御剣に笑いかける。
「大分良いよ」
 熱と渇きのせいで声は掠れているけど、朝よりはずっとマシだ。
「熱も大分下がったようだな」
 御剣はテーブルの上から体温計を取り上た。
「喉が渇いたろう。用意してくるから熱を計ってしまえ」
 言われるままに体温計をくわえると、御剣はタオルを持って立ち上がる。
 軽い足音が遠くなって、水音と食器の擦れる音がして、すぐにまた戻ってきた。
 机の上に置かれたのは2本のペットボトルとマグカップ、それと絞りなおしてきたらしいタオル。
 タイミング良く体温計が小さな音を鳴らした。
「37.6℃だって」
 そう教えると御剣の眉間のひびが深くなる。
「点滴までうったのに、まだそんなにあるのか…」
「そう? 十分下がったと思うけど」
 起きようとすると、すかさず肩に手を回して支えてくれる。
 肩に薄手の上着をかけてもらって、スポーツドリンクが入ったマグカップを持たされて。あまりの至れり尽くせりに、思わず笑ってしまった。実家に居た時も、入院していた時だって、こんなにかいがいしく世話はやかれなかった。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでも」
 冷たいドリンクがすごく美味しい。自覚はなかったけど、随分喉が渇いてたみたいだ。そのままマグカップを空にしてしまった。
 もっと飲みたい。でも、口の中が冷たくなったから、出来れば別のものが良い。
 どうしようかと思っていると、気が付いた御剣がおかわりをそそいでくれた。
「飲めそうならもう少し飲んでおきたまえ」
 促されて1口飲んで、驚いた。
 冷たくない。
 全くの常温で、ちょっと甘いのが最初と違った意味で美味しい。
 ペットボトルが2本あったのはこういうことかと、今更気が付いた。
 怖いくらいに気が回るぼくの恋人は、普段の不器用さが不思議なくらい手際良く洗濯物を干している。
 検事は御剣の天職だと思うけど、意外に看護士なんかも向いてるかもしれない。
 ちびちびとマグカップを傾けながら鮮やかな手つきに見とれていると、御剣が手を止めずにぼくを見返した。
「どうした?」
「ん? 手際良いなぁって思って。世話好きだし、気も利くし、考えてるコト分かるし、看護士とか家政夫とかでもきっと大成功してたよ」
 思っていたことを口に出すと、御剣は盛大に呆れた顔をした。
「君は、私が世話好きだと本当に思っているのか?」
 そりゃ、普段の御剣から『世話好き』なんて言葉は想像できないけどさ。
「実際、世話焼いてくれてるじゃないか」
 替えのシーツを用意しながらそんなこと聞かれたって、全然説得力がない。
「笑っている元気があるなら、こちらに移ってくれ」
 フローリングに置かれたクッションを指差されて、ぼくは頷いた。ベッドから下りようとすると、当たり前のように手を貸してくれるから、やっぱり笑いが止まらない。
 御剣はもう諦めたみたいで、溜息もつかなかった。
「着替えは1人で出来そうか?」
「うん。それくらい余裕だよ」
「事後承諾ですまないが、勝手に探させてもらった」
 渡されたのは、衣替えで行方不明になっていたパジャマと洗った下着。それと、机の上にあったタオルだった。
「温かい…」
「蒸しタオルだ。それで下を拭けば良い」
 出来なさそうなら手伝おう、という申し出は丁重に断った。御剣には見られるどころかそれ以上のことだって散々されてるけど、何でもない時に見られるのはやっぱり少し気恥ずかしい。
 シーツとタオルケットを替えてくれてる間に、汗で濡れたパジャマと下着を脱いだ。『下』って『下半身』のことだと思ったら、下着を取り替えたところで御剣が傍に来た。さっきカゴを持って台所に行ったと思ったら、数本の蒸しタオルを積み上げたお盆を持っている。
「手伝おう」
 さっきぼくが使ったのよりずっと熱いタオルで足を拭いてくれる。
 御剣に足を拭いてもらうって、すごい贅沢っていうか、むしろ悪いことをしてる気分になる。今座っているのがイスじゃなくて良かった。こんなコトしてくれてる御剣を上から見下ろしたり−−とか想像しただけで倒れそうだ。
「考えてみたのだが」
「はいっ!」
 いきなり話しかけられて、思わず変な返事をしてしまった。怪訝そうな御剣を笑ってごまかしながら続きを促した。
 何か言われるかと思ったけど、体調が悪いからかな、見逃してくれたみたいだ。
「やはり私は世話焼きではないと思う」
「また、その話?」
 ぼくは天井に息を吐き出した。
 べつに深い意味があって言ったわけじゃないんだけどな。自分の天職が『検事』以外にもあるのが気に入らないのか?
「君だから、だ」
「−−え?」
 別のことを考えていたから反応が遅れた。
 思わず御剣を見ると、すごく真面目な顔をしている。
「相手が君だから、少しでも役に立ちたいと思う。だから、自分が出来ることをいろいろ考える」
「はぁ」
 足の指とか拭いてもらいながら言われると、説得力あるよなぁ。
 御剣はパジャマのズボンを履かせてくれると、新しいタオルを持って後ろにまわった。熱いタオルで肩から背中、腰まで拭いてくれる。
「先程『考えていること分かる』と言ったが、それも君限定だ。いつも見ているから、些細な仕草や表情で考えていることを察せられる」
「そ、う。ありがと」
 なんか、ものすごく恥ずかしいコトを言われている気がする。じわじわと顔に血が上ってくるのが自分でも分かった。
「終わったぞ」
 パジャマを羽織らせてくれた御剣が正面に来るなり眉を寄せた。
「すまない。寒かったか?」
「え? そんなことないけど?」
 むしろ暑いくらいだけど、さすがに原因になった奴には言えない。
「顔が紅い。熱が上がったのだろうか?」
 御剣が落ち込んだように顔をしかめる。病状を悪化させた、とか思ってるな。
「いやいや、そんなことないよ。全然大丈夫だから!」
 出来れば理由は言いたくないので必死に言い募る。なんとなく御剣の眉間のひびも緩んだ。
「食欲はあるだろうか。粥くらいは用意できるが」
「うん、お腹空いてるけど」
「では、準備しよう。それまで休んでいると良い」
 ベッドに戻るのに手を貸してくれてから、御剣は台所に行ってしまった。
 新しいパジャマとシーツが気持ちいい。1日寝ていたせいか、ちょっと起き上がっただけなのに少し疲れた。
 このままだと眠ってしまいそうで、ベッドの上に起き上がる。
「どうした?」  気が付いた御剣が台所から声をかけてきた。
「なんか、横になってたら寝ちゃいそうで」
「眠れば良いだろう」
「でも、お腹空いてるから」
 言いながら、枕もとの目覚まし時計で時間を確認した。
 そろそろ日付けが変わる。さすがに御剣も明日は仕事だろうな。このままだと夜通し看病してくれそうだし、ちゃんと帰らせないと。
 そんなことを考えていると、御剣が食事を持ってきてくれた。鍋にお粥と、小鉢にレンゲ。
「うわっ、もしかして、レトルトじゃなくて、手作り?」
「そうだ」
 こいつ、料理出来たんだなぁ。せっかく作ってくれたんだし、美味しいって言わなくちゃな。お粥ってご飯に芯とか残りやすいし。
「食べる前から失礼な男だな、貴様は」
 不機嫌な声に、思わず背筋が伸びた。御剣が冷ややかな目でぼくを見ている。
「口に合わなかったら残せば良い。私に気を使う必要はない」
「いや、あはははは」
 笑ってごまかしながら、ちょっと覚悟を決めて1口食べる。
 びっくりした。
「ちゃんと美味しいよ、これ」
「ちゃんと、とはなんだ。自信がなければ他人に振る舞う筈があるまい」
 ああ、そうだよね。お前、完璧主義者だもんね。でも、この場合はすごく有り難い。
 胃に染みる味だ…。
 食べるのに一生懸命なぼくを勝ち誇った様に眺めていた御剣が、ふっと雰囲気を変えた。
「成歩堂」
「ん?」
「今日、泊まっていっても良いだろうか」
 危うく、むせそうになった。顔を上げると、真剣に見つめられる。
 もう帰って良いって言わなきゃいけなかったのに、先手を打たれてしまった。これを食べ終わったら、とか悠長にしてる場合じゃなかった。
「迷惑だろうか?」
「え…っと−−」
 迷惑なわけない。こんなにいろいろしてくれなくても、一緒にいてくれるだけで嬉しい。顔を見ただけで、すごく安心するのに。
 でも、これ以上引き止めたら、明日の仕事に影響してしまう。仕事は全部終わったとか言ってたけど、そう簡単に終わるんだったら、こいつが毎日深夜まで残業なんかするはずないんだから。
 頭では分かってるのに、ぼくの口は『帰れ』とも『迷惑だ』とも動いてくれない。
「迷惑ならば、今夜は帰ろう。まあ、部屋に戻ったところで、君のことが気になって一睡も出来ないだろうが」
 御剣はぼくの、ぼくだけのエスパーだから、下らない葛藤もお見通しだ。だからこんな風に、帰らなくても良くなる口実をくれる。
「成歩堂、君の傍に居させてほしい」
「−−うん」
 ぼくが肯くと、御剣は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
 お礼を言うのはこっちの方なのに。
 だからせめて、ぼくは動きの鈍い頭を働かせる。
「でも、ぼく、1晩中寝顔を見られるのはイヤなんだよね」
「ム。だが、離れていては様子も分からないだろう」
「うん。だからさ」
 ぼくはポンポンとベッドを叩いた。
「御剣がここで一緒に寝るなら、泊まっていっても良いよ」
 ベッドはシングルサイズだから、男が2人だと抱き合いでもしないと寝てられない。
 今まで何度か御剣が泊まった時も、そうやって眠った。まあ、その時は単に『眠った』だけじゃなかったけど。
「それはそれは、積極的なお誘いだな」
 御剣が悪戯っぽく笑うから、ぼくも同じ様に笑ってみせる。
「だってぼく、御剣検事は病人相手に変な気は起こさないって信じてますから」
「−−ム」
 御剣は難しい顔で考え込んでしまった。
 そりゃあ御剣だって、ぼくが昼間くらいの病人だったら、間違っても手なんか出さないだろうけど。
 でも、今は熱っぽいだけで元気だし。ちょっとくらいならしても良いかなぁ、って気分だし。
 どうするのかは全部任せて、この間に食事を終わらせてしまおう。
 御剣の作ってくれたお粥は、冷めても美味しかった。

 

>> HOME > 逆転裁判 > PREV