大型の甲賀手裏剣が黒い装束を切り裂いた。声も無く地に倒れた同業者から一歩下がり、佐助は周囲に目を配る。
人の気配がしないことを確認して、佐助はふっと息を吐いた。朝から息を吐く間もなく相手側の忍びと戦い続けていたが、漸く相手方も尽きて来たらしい。少しだけ緊張を緩めたその時、背後の茂みががさりと蠢いた。
反射的に手裏剣を飛ばして手近な木の上に飛び上がる。葉の影から相手の姿を確認した佐助は、脱力して枝から落ちそうになった。
「Good morning, my sweet honey 〜」
殺気のこもった佐助の攻撃を難なく刀で防ぎ、人を食った笑みで姿を現したのは、奥州の覇者 伊達政宗だった。
一瞬このまま姿をくらまそうかとも思ったが、ちょいちょいと猫の子の様に指先で呼ばれて、佐助は逃げるのを諦める。ここで逃げたら今度会った時に何が起こるか分からないと、観念して政宗の前に降り立った。
「一体、こんなところで何してるわけ?」
問いかける声にも疲れが滲む。
現在、武田軍は宿敵上杉と交戦中である。間違っても他国の武将、しかも大将が居て良い場所ではない。
だが、政宗は佐助の気苦労など気にもかけずに笑みを深くした。
「今日が何の日か知ってるか?」
「−−聞いてるのはこっちだっつの」
悪態を吐きながらも、佐助は律儀に首をひねる。
「今日って、如月の十四日だよね? 何かあった?」
「St. Valentine's Day だ」
聞いたこともないような言葉の羅列に、佐助は眉をひそめた。
「もしかして、異国の記念日とか?」
「That's right. 異国の偉い坊さんがなぶり殺しにされた日だってよ」
「……なに、それ」
思わず聞き返したが、政宗は答えない。喉の奥で笑いながら、持っていた紙の箱を手渡した。
「なに、これ?」
片手に乗るくらいの箱は意外に軽い。かすかに餡とも黄粉とも似つかない甘い香りがする。
「異国では St. Valentine's Day に Lover に渡すそうだ」
途中の言葉の意味は分からなかったが、そこに触れると怖いことになりそうで敢えて聞かないことにした。
「へぇ、俺にくれるの?」
「Of course.」
政宗が肯いたのを確認して、箱を開ける。
小振りな箱の中には濃い茶色の薄い板がいくつも並んでいた。ふわりと広がる甘い香りが食欲をそそる。どうやら食べ物らしい。
「食べられるんだよね?」
「ああ」
贈り主に確認すると、政宗はあっさりと頷いた。異国語を交えることもなく、言葉少なく真っ当に返事をした政宗に、返って不信感が沸く。
「……旦那は食べたの?」
一応念を押すと、政宗はひょいと肩を竦めてみせた。
「Nonsense! 牛の血を固めたとかいう菓子だぜ? 食うわけねえだろ」
「そんな物を寄こすなあ!」
とっさに怒鳴り返すと、政宗は腹を抱えて笑い出した。
怒りで箱を持つ手が震える。
佐助が小箱を投げ返す前に政宗は笑いをおさめ、あっさりと背を向けた。
「ちょっと旦那!」
慌てて呼び止めると、獰猛な笑みを浮かべて振り返る。
「これ以上長居すると乱入したくなるんが−−O.K.?」
「いや、それはマズいけどっ」
「See you, my kitty」
ひらひらと手を振って、政宗は茂みの奥に分け入っていった。佐助が追いかける間もなく、馬の鳴き声と走り去る音が聞こえた。
「うーん、どうしよう……」
佐助は途方に暮れて『血を固めた菓子』を見下ろした。
甘い香りの中に血の気配は感じられない。だが、先程言われた今日の由来と相まって政宗の言葉を否定出来ない。
捨ててしまっても文句はいわれないだろうが、仮にも食べ物を口をつけずに破棄するのは忍びない。異国のものであまり手に入らない菓子ともなればなお更だ。
第一、その辺に捨ておいては甘いもの好きな主人が見つけて食べてしまうかもしれない。
「仕方ないなぁ」
佐助は香りがもれない様に布で箱を包んで懐にしまいこんだ。
「取り敢えず、考えるのはお仕事が終わってからにしますか!」
背後に迫っていた敵を手裏剣で切り裂き、佐助は再び戦いに身を投じた。
*****
その日の夜、佐助は奥州は青葉城、伊達政宗の寝所に忍び込んだ。
天井板の隙間から部屋の中を窺うと、行灯の薄い明かりの中に寝間着姿の政宗が見えた。布団の上に座っているので、上からでは頭しか見えない。政宗は眠る時にも横にはならないので、起きているかどうかは分からなかった。
もう寝ているかもしれないなら−−と佐助が帰ろうとした時
「Hey, いつまでそうしてるんだ?」
唐突に下から声が聞こえた。
もう一度覗いてみたが、先程と何も変わらない。廊下に誰か居るのかと思い直した時
「お前のことだぜ、佐助」
今度は名指しだった。
「うっそ! 気付いてたの?」
忍び失格かなぁと独りごちながら、天井裏から飛び降りる。
「そりゃ my dearest のことだからな」
「うわー、その異国語、何て意味かは聞かないでおこう……」
政宗は機嫌良く笑いながら顔をしかめる佐助を抱き寄せた。
「着物、汚れるよ」
口ではそう言いながらも、佐助は抗わずに身を委ねる。
「遠路はるばる会いに来てくれて嬉しいぜ」
政宗が頬に唇を滑らせると、佐助はくすぐったそうに身をよじった。
「昼間会った時、お礼しなかったからね」
「礼?」
「そ。ちょこれいとありがと。美味しかったよ」
そう言って、佐助は政宗に口付ける。柔らかく触れていった唇と予想もしていなかった言葉に、政宗が一瞬固まった。
「ちょっと待て! 食ったのか、アレを!?」
「だってお菓子でしょ?」
ことなげもなくのたまう佐助を、政宗はぎゅっと抱きしめる。
「あんな得体のしれねぇモンを口にすんな! 毒でも入ってたらどうするんだ……」
「自分がくれたのに『得体がしれない』はないだろ。大丈夫だよ、俺、独眼竜の旦那はそんなつまんないことする人じゃないって知ってるし」
殺る時は真正面から、だろ?
そうにっこり笑った佐助に、政宗は奥歯を噛み締めた。
「可愛すぎだろ−−」
佐助の両肩を掴んで、布団へ押し倒す。
「えっ? ちょっと、旦那っ!」
首筋に噛みつかれて言葉が途切れた。額当てを取られ、衣服の中に手を入れられて、佐助は必死の思いで政宗の腕から抜け出した。
「駄目だって! 戦場からまっすぐここに来たから汚れてるし、それにそんなつもりで来たわけじゃ−−」
「Shut up !」
壁際まで逃げた佐助を、政宗は獣の目で睨みつける。
幾分涙目の佐助と暫し睨みあいの末、先に折れたのは政宗の方だった。
「−−分かった」
「え?」
仕方ないと言うように、政宗が目を伏せる。
「St. Valentine's Day に力づくってのも cool じゃねぇしな」
いつになく優しい言葉に、佐助は安堵のため息をついた。その隙をついて−−
「うわっ」
−−政宗は細い肢体を肩に担ぎ上げた。
「つまり、風呂に入れば O.K. だろ?」
「えっ!?」
「風呂に入るぞ! 用意しろ!」
廊下を歩きながら声を張り上げると、途端に館中が慌しくなる。
「ちょっと、旦那ってば!」
「ああ、後でいくらでも『そんなつもり』にさせてやるから、少し大人しくしてろ」
じたばたと暴れる佐助を押さえながら、政宗はため息をついた。
「鎖帷子くらい外してこいよ。気が利かねえな」
「人の話を聞けって! こんなところで服を脱がすなあ!」
半泣きの佐助の声が館中に響きわたったが、煮詰まった独眼竜を止める度胸のある人間は、少なくとも奥州には存在しなかった。
Happy Valentine for Lovers.