船内に広がる香ばしいパンの匂いに、ナミとロビンは顔を見合わせた。
サウザンド・サニー号の朝はパンのことが多い。それは、ナミとロビンがパン派だからで、実は食欲旺盛な男性陣(サンジ除く)には不評なのだ。
今日はゾロの誕生日だから、3食+おやつの決定権はゾロにある。それなのに、この匂いはなんなのだろう?
「サンジくん、ゾロとケンカでもしたのかしら?」
首を傾げるナミだったが、言っている本人もそれは有り得ないと分かっていた。
ケンカをしようが、殺し合いをしようが、誰かが夜中に盗み食いをして食糧難にでも陥らない限り、リクエストされたメニューが変わることはない。コックさんの職業意識は山より高いのだ。
「それよりも、私達用にパンを焼いてくれたと考えるほうが妥当ではないかしら」
「有り得るけど…そんな不経済なこと、サンジくんがする?」
話しながらキッチンのドアを開けた。
「おっはよー、ナミさん、ロビンちゃん! お目覚めにコーヒーはいかがぁ?」
いつもの様に目をハートにしたサンジが持っているのは、大量にクロワッサンが積まれたカゴだ。
クロワッサンは腹にたまらない、食べた気にならないと最高に不評なパンだ。それなのに、それ以外の主食が用意されている気配はない。
「うん、もらうけど。それよりサンジくん、ゾロとケンカでもしたの?」
「えー? ケンカなんかしてないよほー」
2人にじっと見つめられてデレデレと表情を崩していたサンジだが、無言でいつまでも見られ続けて、次第に顔が強張ってきた。
「えーと、ナミさん? ロビンちゃん?」
「−−ウソはついてないみたいね」
ロビンが呟くと、サンジはきょとんと首を傾げた。
「もしかしなくても、朝ご飯のこと?」
「まあ、私たちは嬉しいけどね、このメニューでも」
ナミに言われて、サンジは苦笑した。
「大丈夫、これ、ゾロのリクエストだから。朝はクロワッサンとオニオンスープって」
「そうなの? ゾロってもっとガッツリしたのが好きだと思ってた」
「意外ね」
しみじみ呟いたロビンの後ろで、勢いよくドアが開いた。
「サンジ! めーーしーーーーー!」
「うるせーぞ、クソゴム! 朝飯食いたきゃ、他の野郎ども起こして来い!」
飛び込んできたルフィを足で止めて怒鳴る。
「ん? もうみんな来るぞ」
「待て、ルフィ! まだ食うなよっ」
「おはよう、サンジ! あ、ナミとロビンもおはよう!」
「おう、おはようさん」
「おはようございます、みなさん」
「ふぁ〜あ」
最後に大あくびをしながら入ってきたゾロが、サンジとテーブルの上を見比べて、かすかに眉をひそめた。
「ようし! 全員揃ったな! サンジ、めしーっ!」
ルフィの声で怒涛の朝食が始まった。
*****
大騒ぎの朝食の後片付けをしてから、漸く一服する余裕が出来る。
サンジはタバコをくわえながら、スーツのポケットから小さな紙を取り出した。それはゾロがリクエストした今日のメニューだ。
『朝:クロワッサン・オニオンスープ
昼:ビーフシチュー
夜:餃子
おやつ:ミートパイ
ケーキ:バウムクーヘン
』
意外に達筆な字を改めて見直して、煙と一緒にため息を吐き出す。
どんな料理を出しても、ゾロが美味いと口にすることはない。だが、食べっぷりや表情から好きな物は見当をつけていたつもりだった。
ゾロがよこした紙切れには、サンジが認識していた『好物』とは全く違うメニューばかりが並んでいた。
それだけでも結構ショックだったのに、今朝、テーブルの上を見たゾロは少し不機嫌になった。いつも、何でも良い、で済ます男が書いてきたリクエストだから、張り切って作ったのに。
サンジはお玉でゆっくりと鍋をかき混ぜた。
昼はビーフシチューだ。煮込めば煮込むほど美味しくなる料理だから、数日前から用意していた。でも、これ以外はパイ生地と餃子の皮くらいしか出来ていない。手間がかかるものばかりだから悠長にシチューをかき回している時間はないのだが、またあんな顔を見るのかと思うと料理を始める気になれなかった。
不意にドアが開く。
「おい、コック」
顔を出したゾロは、サンジを見てまた不機嫌そうに顔をしかめた。
「なんだよ、酒なら出さねーぞ」
「そんなんじゃねぇよ」
「じぇあ出て行け! 俺は忙しいんだよ!」
サンジの文句は構わずに、ゾロは食堂に入ってきた。そのままカウンター越しにサンジの前まで来る。
「てめぇ、なんでそんなツラしてやがる」
「うるせーな! 俺はいつもこんな顔だよ! 邪魔だから出て行け!」
普段ならあっさりとケンカになるのに、ゾロは刀を抜かなかった。
「忙しいんだろ?」
「そーだよ! 誰かさんのリクエストのおかげでな!」
なんだそれ? とか言われたらぶち切れる自信があったが、幸いそんな答えは返ってこなかった。
「じゃあ、どうしてそんな顔してやがる」
ゾロが低音で唸る。
「朝からシケたツラしやがって」
「そりゃあ…」
ナミとロビンの前では強がっていたが、実はサンジも朝のメニューに戸惑っていたのだ。少なくとも笑顔ではなかっただろう。
「何であのパン、選んだと思ってやがる」
「・・・・・ちょっと待て」
なんだか、思っているのとは違う理由でメニューが決められたらしい。
サンジはタバコを流しに投げ捨てた。新しいのを取り出し、火をつけて、大きく1息吸う。
「お前、パンより米の飯の方が好き、だよな?」
「おう、好きだな」
「パンの中で1番好きなのはクロワッサンだったか?」
「いや、もっと硬くて喰いごたえのある方が良い」
サンジは怒りで震えそうになる声を懸命に抑えた。
「じゃあ、なんで、クロワッサンを作れなんて言ったんだ?」
「前に、1番手間かかるパンだって言ってたじゃねぇか」
サンジの中でぶちんと何かが切れる音がした。
「ただの嫌がらせか、クソマリモ!」
渾身の跳び蹴りだったが、ゾロは腕で払い除けた。
「嫌がらせじゃねぇよ!」
「何が食べたいか聞いて、あまり好きじゃない物を答えるなんて、コックをバカにしてんのか!」
「違うって言ってんだろ! いい加減にしろ、てめぇ!」
何度か蹴りが顔を掠めて、ゾロも青筋を立てて刀を抜く。
刀と革靴が何度も交錯した。椅子が跳ね飛ばされ、踏まれて割れる。
「大体なぁ!」
黒い新入りを振り下ろしながらゾロが叫ぶ。斬撃はサンジの靴底を削り、テーブルを真っ二つにした。
「俺が聞かれたのは、何を作ってほしいか、だっただろ!」
「同じじゃねーかよ!」
サンジが黒刀を踏み台にして宙に飛ぶ。首とこめかみを狙った両側からの蹴りをゾロは身を屈めてかわした。
「同じじゃねぇ!」
軌道を変えて上から降る蹴りを刀で跳ね除けながらゾロが叫ぶ。
「面倒な料理を作る時はいつも機嫌良いじゃねぇか! 誕生日くらい、1日機嫌良いツラ見ていてぇと思って何が悪い! だいたい、てめぇの作った料理で、好きじゃねぇモンなんかねぇよ!」
一瞬、時間が止まった。
1拍おいて、サンジが首まで赤くなる。
ゾロがそれに気をとられた僅かな隙をついて、今日1番の破壊力の蹴りが炸裂した。
「ンなことをデカい声で叫ぶんじゃねーーっ!!」
刀を交差させて受け止めたが、威力は殺しきれずにドアをぶち破って甲板まで吹き飛ぶ。
「油断した…!」
歯軋りをして刀を持ち直し、突入をかけようとしたところで、サンジがキッチンから出てきた。
「おっと、クソ剣士、お遊びはここまでだ」
「なんだと! 逃げんのか、てめぇ!」
タバコに火を点け、煙を空へ吐きながら、見下すように顎を上げる。頬はまだ少し赤い。
「ばーか。タイムリミットだよ。マリモちゃんは昼飯までに、ドアと椅子とテーブル、直しとけよ」
「なんで俺が…!」
「俺はこれから食事の準備だ。いいだろ、キャプテン」
声をかけられて、甲板から眺めていたルフィが大きく頷く。
「そーだな。ゾロ、しっかりやれよ」
ルフィの答えを聞いて、サンジは手を振りながらキッチンに入っていった。
船長の言葉に逆らえるゾロではない。わなわなと怒りに震える肩を、両側からウソップとフランキーが叩いた。
「やられっぱなしで悔しいのは分かるが、落ち着けよ、ロロノア」
「修理、俺たちが手伝ってやるからよ」
「くそっ」
足音荒くキッチンに向かうゾロを、チョッパーが心配そうに見送る。
「ゾロ、怒ってるな。せっかく誕生日なのに…」
「あら、大丈夫よ。キッチンに行ったらすぐに機嫌も直るわ」
「そうなのか?」
きょとんとするチョッパーに、ロビンは笑って肯いた。
きっとキッチンでは、早々にサンジが料理を開始しているだろう。ゾロの不機嫌も吹き飛ぶくらい、これ以上ないくらい上機嫌に。
「ヨホホホホホ。若いっていいですねぇ」
「痴話ケンカはほどほどにしてほしいけどね」
ブルックが笑い、ナミがため息をつく。
ドアがなくなったせいで、ビーフシチューの香りが甲板に漂い出した。
「ううぅ〜、良い匂いだ〜」
そわそわと身体を動かしたルフィが、ぐんっと腕を伸ばす。
「あっ…!」
「サンジ、腹へったーーーっ!」
止める間もなくゴムゴムの力ですっ飛んでいったルフィは、キッチンの前で銀の光に跳ね返された。
「昼まで待て、ルフィ!」
中から聞こえたのは、ゾロの声で。
「ロビンさんの言った通り、ご機嫌も直ったみたいですねぇ」
「ほーんと、単純なんだから」
トンカンと金槌を振るう音がする。
サンジから声がかかるまで、甲板の4人はゴムと剣の攻防をのんびりと眺めることにした。