何故か最近、チョッパーが洗面器を両手で抱えて歩く姿をよく見掛けるようになった。
元々がトナカイなせいか、整理整頓も片付けもきっちり行なう割に風呂だけはどこか敬遠していた風だったのに。
それも決まってゾロの鍛練中に、緊張した表情で男部屋から出てきて、そのまま格納庫に向かう。そして少し経ってからふらふらになって出てくるのだ。
「魔女に何か吹き込まれたか−−?」
これが他のクルーなら放っておくのだが、相手が世間知らずのトナカイなら話は別だ。
ナミとロビンに釘を刺すか、あるいはチョッパーに忠告くらいはしてやろうと考えながら、ゾロは黙々と素振りを続けた。
鍛練を終えて一息ついた時。
「ゾロ!!」
トレーにデカンタとグラスを乗せて、チョッパーがヨチヨチと歩いてきた。
やはり風呂に入っていたようで、毛がしっとりと濡れている。大切な帽子は被らずに肩からバスタオルをかけたその姿は、大きなてるてるぼうずのようだ。
「修行、終わったのか?」
「ああ。今はこれで終わりだ」
『修行』ってのはなんだ? と思いながらゾロが肯くと、チョッパーははいっとトレーを差し出した。
「これ、サンジから。汗臭いままでキッチンに来るなって」
「わざわざ悪ぃな」
礼を言ってバランスの悪そうなトレーを受け取る。デカンタのまま飲んでも良かったのだが、グラスが2つあったのでやめておいた。
2人並んで海を見ながらグラスを傾ける。
ゾロが2回グラスを空にしても、チョッパーのは半分も減っていない。ちらちらとゾロを伺ってばかりで、飲んでいるのが大好きなサンジ特製のレモネードだということも分かってなさそうだ。
「どうした?」
声をかけるとあわあわと慌てる。
「ぞ、ゾロはこの後、予定あるのか?」
「いや、別にねぇよ」
ゾロの答えにチョッパーはぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、この後、一緒にお昼寝しても良いか!?」
チョッパーに言われるまでもなく、鍛練の後は大抵、夕飯まで寝て過ごす。そこにチョッパーが乱入するのもめずらしいことではない。
どうして今日に限ってと内心首を傾げながら、ゾロは鷹揚に頷いた。
「その前に風呂入ってきても良いか?」
「うんっ! 緊張した筋肉を休ませるのは大切だからな!」
チョッパーは船医の顔を覗かせて、小難しく肯いている。愛らしい容姿とのギャップがおかしくて、ゾロはこっそりと笑いを噛み殺した。
「じゃあ待ってるからな! ちゃんと湯舟に浸かるんだぞ!」
「ああ」
せっかく何事か張り切っているのに笑って機嫌を損ねるてはと、ゾロは足早にその場を立ち去った。
シャワーで済ませるところを言われた通りに湯を張って風呂に入る。
少し時間をかけて汗を流してから甲板に出た。
空には雲ひとつなく、風も穏やかだ。
ナミやロビンがパラソルの下で寛いだり、ルフィとウソップが釣竿を手に大騒ぎしたりしていそうなものだが、甲板には誰も出ていない。
代わりにキッチンが変に騒がしい。
そういえば、昼を食べたきりキッチンに行ってないなと足を向けようとすると、ツンツンとズボンが引っ張られた。
見下ろすと、格納庫のドアの横にチョッパーが座っている。
「待ってたのか?」
「うん! こっちだ!」
チョロチョロと走るチョッパーの後をついて行くと、後方甲板へ案内された。
ついさっきまで鍛練に使っていたその場所には、ふかふかの毛布が広げてあった。デカンタとグラスは置いたままだったが、殆ど空になっていたデカンタは中味が補充されているし、グラスは新しいものに取り替えられていた。
チョッパーは獣型になって、毛布の端に寝そべった。
「ゾロ! こっちこっち!」
ポンポンと蹄で毛布を叩いてゾロを呼ぶ。
「なんで動物になるんだ? 昼寝するんじゃなかったのか?」
「するぞ! いつもゾロに枕になってもらってるから、今日はオレが枕だ」
胸を張って言われて、ゾロはガリガリと頭を掻いた。
確かに一緒に寝るときはチョッパーがゾロの上に乗っかることが多いので、枕−−むしろ布団−−代わりになっている。動物の横腹は柔らかくて気持ち良さそうだとも思う。
だが、ゾロとチョッパーでは大きさが全然違う。獣人型から獣型になって少し大きくはなったが、それでも潰してしまいかねなくて怖かった。
「…………。」
ちらりとチョッパーを見ると、キラキラと輝く瞳で待たれていた。
そんなに期待に満ち溢れた目で見つめられては断れない。ゾロは腹をくくった。
「じゃあ、頼む」
「おう!」
頭がチョッパーの腹に乗るように毛布に寝転ぶ。
思っていたより柔らかい腹毛が首元をくすぐり、硬い背中の毛がちくちくと頭を刺激した。
心臓の音と、血の流れる微かな音が聞こえる。
そして、僅かに石鹸の匂いがした。
「−−良い匂いだな」
「そうか! ロビンに貰った入浴剤だ!」
「入浴剤だと?」
匂いに敏感なチョッパーは、香りのするものが苦手だ。香水は勿論、シャンプー・リンス・ボディソープ。入浴剤も例外ではない。
「ナミに獣臭いって言われたから、いろいろ試したんだ。殆どダメだったけど、これは良い匂いだと思ったんだ。ゾロもそう思うんだな」
「ああ、良いな」
そう答えると、チョッパーは嬉しそうに笑った。
やはり、最近のチョッパーの奇行は魔女が原因だったらしい。後で絶対一言言ってやろうと心に誓いながら、ゾロはもう一度口を開いた。
「良い匂いだと思うがな、チョッパー」
「ん? なんだ?」
「俺はいつものお前の匂いも好きだ」
「そ、そんなこと言われても嬉しくねーぞ!」
枕がくねくねと動く。いつもの踊りが頭の下で行われているらしい。
見えないのを残念に思いながら、ゾロは手を伸ばした。帽子の上からチョッパーを撫でる。
「本当だ」
「−−うん、ありがとう。でも良いんだ。今日は特別だ」
『特別』の意味に全く気が付いていないゾロに、チョッパーは声をひそめて教えた。
「今日はゾロの誕生日だから、特別なんだ」
「あぁ?」
思わず頭を浮かしたゾロと目が合う。チョッパーは蹄を口元に当てた。
「しーっ! 本当は夕飯まで内緒だって言われてるんだからな」
真剣なチョッパーの表情に、ゾロも口をつぐんだ。
暦と四季が釣り合わないグランドラインだが、言われてみればそろそろかもしれない。
これで天気が良いのにみんなの姿が見えなかった訳も、変にキッチンが騒がしいかも分かった。
「じゃあ、夕飯まで寝るか」
「おう!」
天気も良いし、風も気持ち良い。絶好の昼寝日和に、自然に瞼も重くなる。
本格的に寝そうになった時、チョッパーがたどたどしい声でゾロを呼んだ。
「ゾロ、誕生日、おめでとう」
寝入り端だったのだろう、最後は寝息と変わらなかった。
ゾロは返事の変わりに、手を伸ばしてチョッパーの帽子を軽く叩いた。
ゾロ 誕生日 おめでとう