「もう、大丈夫…」
ナミが擦れた声でそう言った途端、ほぼ全員がその場に崩れ落ちた。
前の島で酷く海が荒れる海域だと聞いてはいたのだが、覚悟していた以上のものだった。
1日目はなんとかやり過ごし、2日目は気合で乗り切り、誰も欠けることなくこの海域を抜けることが出来たのは奇跡以外の何ものでもなかった。
「おれ、は…もう、だめだ……」
「い、医者〜〜」
恒例のウソップとチョッパーの台詞もいつも以上に弱々しい。
1人と1匹は側にあるゾロの足に縋り付いた。
「せ、せめて、死ぬ時はベッドで…」
「ゾロ〜…」
じっと水平線を見据えていたゾロは、足元を見下ろし、ゆっくりと瞬いた。ひょいひょいとウソップとチョッパーを肩に乗せる。
「まりも、煙草」
「こっちはコーラ」
「みかんジュース…」
「に〜〜く〜〜…」
「お風呂に入りたいわ」
口々にかけられる声に軽く頷き、まずは男部屋に足を向けた。
「化け物だな、ロロノアは…」
フランキーが感心した様な声を上げる。
先の嵐でも、体力が尽きた、浸る程の波を何度も受けた、塩分で鉄の身体が軋み始めた、古傷が痛みだしたと様々な理由で仲間達の動きが鈍っていく中、ゾロは最後まで全く変わらなかった。
今も全員がへたり込んでいるのに、ゾロ1人だけが平然と歩き回っている。
「でも、私たちが好き勝手言っても、何も言わなかったわね」
「やっぱり疲れているのよ。いつも以上に口数が少ないわ」
女性2人の見解に、サンジは小さく舌打ちした。少し声を張り上げる。
「おいクソ剣士。ラックの1番上の段なら1本飲んで良いぞ」
ゾロは僅かに振り返り、片手を上げて応えた。
一息いれたサンジが軽い食事を作って空腹が満たされると、仲間たちは倒れるように眠り込んだ。
1人残ったゾロは、甲板に出た。
3日間寝ずに動き回ったせいで、鈍らせていた身体が本調子に戻りつつある。
暫く怠惰に寝て過ごせばまた鈍らせる事が出来るが、その前に−−。
ゾロは水平線沿いに目を走らせた。
水平線近くに小さく2つの船影が見える。そこから押し殺された殺意がはっきりと感じられた。
きっと、この海域を抜けて疲弊しきった船を狙う海賊団なのだろう。
それならば、手加減をしてやることもない。
ゾロは刀に手をかけ、嗤った。
動きがあったのは1時間が経ってからだった。
ガレオン船がもうスピードで突っ込んで来る。もう1隻のキャラック船はある程度近付くと、サニー号と並ぶように向きを変えた。
轟音と共に、いくつもの砲門から砲弾が飛来する。
ゾロは船べりに乗ると、刀を一線した。
巻き起こった風に煽られ、砲弾はサニー号を避けるように海に着弾する。
海が荒れ、船が激しく揺れた。
次々と打ち出される砲弾に、何度も剣で空を薙ぐ。
「なんだ何だ?」
「て、敵襲か!?」
漸くわらわらと仲間たちが姿を現した。1番眠りが深い時を叩き起こされたのだから、どの顔からも眠気が抜け切っていない。
砲弾をあしらっているうちに、白兵戦目的の船は随分と近くまで来ていた。
ガレオン船に満載の海賊達は、手に手にかぎ縄を持っている。じきに乗り移って来るだろう。
「敵だな! しかけるぞ!」
ルフィが船べりに近寄るのを、片手を上げて制する。
「ちょっと! なんなのよ!」
「そそそそそこまで来てるじゃねーか!」
不満の声が上がる中、ルフィを振り返る。
目が合うと、ルフィは途端に顔を強張らせた。
「ん。分かった。ゾロに任せる」
船長のお墨付きをもらって、ゾロは刀を3本とも抜いた。
まずは、あの鬱陶しい船をどうにかしなければ。
百八煩悩鳳
砲弾を蹴散らして飛んだ斬激は、船腹に着弾した。木屑が舞い、大きな穴を開ける。勢いを受け止め切れなかったキャラック船は横倒しになった。
「なに、あれ……」
「うそだろ…」
絶句する仲間達をそのままに、ゾロはガレオン船に目をやった。
ルフィのゴムゴムの能力を使えば移動できるが、かぎ縄ではまだ届かない。
軽く頷いて、ゾロは船べりを蹴った。
いきなり宙に飛び出したゾロに、背後で悲鳴が上がる。
百八煩悩鳳では落ちなかった砲弾を飛び移り、ガレオン船に飛び乗った。
たちまち、ゾロを武器を手にした男達が取り囲んだ。刀の間合いを保っているあたり、なかなかの手練れ揃いなのかもしれない。
ゾロは嗤って和道一文字を鞘に収めた。
このくらいのハンデはあっても良いだろう。何より、ゾロ自身が楽しむために。
「てめえ、よくもこの−−」
目の前で吼えた男を頭から叩き斬る。血を噴いた男が倒れる前に、ゾロは人垣の中に飛び込んだ。
目の前の、横手の、背後の敵へ刀を振る。
武器を持った腕が落ち、頭が空に飛び、身体の一部が欠けた肉体が甲板に倒れた。
狙撃手は手首を落とされ、鎖で刀を絡め取ろうとした男は心臓を貫かれる。斬りかかる男達はゾロの重い一撃を受け止めることが出来ず、刀ごと切り裂かれた。
鬼徹と秋水を振るうたび、悲鳴と大量の血しぶきが上がる。
戦意を喪失した者が何人も海へ飛び込んだ。
もっともっと、もっと強い相手を。
それだけを求めて剣を振るう。
返り血で紅く濡れた姿に、嗤う様につり上がった口元は、魔獣そのものだった。
「ぎゃあああぁぁぁっ」
明らかに女の悲鳴に、ゾロは我に返った。
目の前で、薄い布を纏った女が身体を裂かれていた。手には細いナイフを握り締めている。。
甲板の隅に、同じような薄い服の女が数人、寄り添って震えていた。
この船で囲われていた女達のようだ。
逃げる者や歯向かわない者までは手にかけなかったが、この女達にはそんなことまで分からなかったのだろう。死にもの狂いでかかってきたのを、返り討ちにしてしまった。
ゾロは改めて辺りを見回した。
血で濡れた甲板に散らばる手足。転がる死体は原型を留めていないものも多い。
生きている者の多くも五体満足ではなく、向かって来ようとする者は誰も居ない。
ゾロはギリギリと歯を喰いしばった。
まだまだ修行が−−
「−−足りねぇ…」
久し振りに声帯が震え、擦れた声が出る。
話すことも忘れていたなどお笑い草だ。
刀についた血を振り払い、鞘に収める。2刀はカタカタと震えた後、すぐに大人しくなった。
サニー号に戻ろうと踵を返した足元へ、大きな宝箱が差し出された。
「こ、これで、これで勘弁してくれ!」
数人の男達ががたがたと震えながら頭を下げている。どの男も血まみれで、腕か足がなかった。
ここで受け取らなければ、あらぬ誤解を与えそうだ。ゾロはため息を押し殺して、宝箱を担ぎ上げた。
マストを切り倒していなかったせいで船は随分流されていたが、船尾にルフィの腕が巻き付いていた。
ぽんぽんと軽く腕を叩いて合図すると、ルフィはゾロの腕に絡みついた。
ゴムの力でサニー号へと引っ張られる。到着直前に腕は離れ、ゾロは無事に芝生の甲板に降り立った。
その場には全員が揃っていたが、誰からも何もなかった。敵船に移る前の人間離れした行動と、今の血塗れた姿から全てを悟ったのだろう。
少しして、にししっとルフィが笑った。
「おう! お帰り、ゾロ!」
「……ただいま」
それをきっかけに、時間が動き出す。
「ゾロ! すごい血だ。怪我してるのか!?」
「いや。全部返り血だ」
あわあわと走り回るチョッパーを宥めて、宝箱を放り投げる。
鍵が掛かっていなかったのか、横倒しになった箱から赤く汚れた金貨や宝石が流れ出た。そして、いくつかの生首に、いくつもの貴金属をつけた女の腕−−。
ウソップが悲鳴を上げてフランキーの背後に隠れる。ナミの目がベリーに変わった。
「これ、きっと賞金首よね! ウソップ、確認して!」
「勘弁してくれ〜〜っ」
「俺がやってやるよ。手配書、貸してくれ」
「血で汚れて分からないけれど、どれも本物のようね」
「よくやったわ、ゾロ!」
「食いもんはねーのか?」
途端にいつもに戻って騒がしくなった仲間達を、ゾロはじっと眺めた。
「おい、いつまでそんな小汚ねぇ格好でいるつもりだ。風呂入ってこい」
「着替えなら持っていってやるぞ〜」
「お風呂から上がったら検査するからな!」
促されて、風呂場に向かう。
血で重く濡れた服を脱ぎ捨てた。湯船に入る前にシャワーを浴びると、暫く赤い湯が流れた。
正直、意外な展開だった。
本性を垣間見せてしまったからには、誹謗も糾弾も覚悟していた。船を下りろと言われるかもしれないとまで思っていたのに。
あっさりと受け入れられて安堵半分、落胆半分といったところか。
湯船に浸かりながら、先の戦いを思い返す。
久し振りに素に戻って剣を振るった。残念ながら、剣を2本に減らしても戦って楽しいと思うような相手は居なかったが。
これならば、剣士でないのを差し引いても、この船の仲間達の方が余程戦い甲斐があるだろう。
ルフィに引っ張られて戻ってくる時にも、少しだけ思ったのだ。今の行動とこの姿を切欠に、こいつらと戦うことになったら、と。
それも現実にはならなかった。
3日かけて磨かれた身体は、5日も寝て過ごせばまた鈍るだろう。
そのうちまた機会はあるだろうと、ゾロはゆっくりと手足を伸ばした。