全長1.78メートルの世界

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 事務所に入って来るなり、御剣は眉間のシワを深くした。

「あつい」
「暑けりゃ脱げよ」

 答える成歩堂の声は冷たい。
 冷房が効いている検察庁や裁判所と違い、成歩堂法律事務所は光熱費の関係で必要最低限の空調しか入れられないのだ。移動の際も車を使って快適空間を維持しているブルジョア検事にどうこう言われる筋合いはない。
 仏頂面の成歩堂に対し、助手2人は笑顔で御剣を出迎えた。
「こんにちは、みつるぎ検事さん!」
「すみません、みつるぎ検事。やっぱり暑いですよね。今、温度下げますね」
「邪魔をする。ああ、真宵くん、クーラは強めなくとも結構だ。この事務所の経済状況は把握しているつもりだからな」
 なんでお前が把握してるんだと成歩堂が噛み付く間もなく、御剣は薄いビニールの手提げに入った大きな白い箱を差し出した。
「それに、この様な物は多少暑い方が美味しく食べれるだろう」
 2人が歓声を上げる。
「いつもありがとうございます!」
「みつるぎ検事さん、冷たいものは緑茶しかないのですが、どうぞ召し上がって下さいませ」
「ほらほら、なるほどくん、みつるぎ検事に場所譲って! そこが1番涼しいんだから」
 頻繁に事務所に顔を出すのに手土産を欠かさないせいで、真宵と春美はすっかり御剣の味方だ。
「食べ物で釣るなんて卑怯だぞ」
 ソファの特等席を譲りながら、涼し気な顔を恨めしく見上げた。
「悔しいなら君もやりたまえ」
「……嫌味なヤツ」
 そんな金なんかどこにもないことを知っているくせに。
 そっぽを向いた成歩堂の横に座った御剣は、ソファの熱さに一瞬動きを止めた。
「やはり熱いな」
「だから、文句があるなら脱げってば」
 不機嫌になっても『帰れ』とは言わない成歩堂に、つい口元が綻ぶ。ここで笑ったら更に機嫌を損ねるだろうから、御剣はごまかす様に冷えた緑茶を一口飲んだ。
「室温の話ではない。今更この事務所の地球温暖化への貢献度について話しても仕方なかろう。君のことだ」
「ぼくの?」
 成歩堂は視線だけを御剣に向けた。
「夏も盛りだというのに、なんだ、この服は」
「うひゃ!」
 さらりと太股を撫でられて、成歩堂が飛び上がる。
 タイミングが良いのか悪いのか、紅茶を持ってきた真宵がわざとらしく顔をしかめた。
「セクハラですか、みつるぎ検事? はみちゃんの教育に悪いから止めて下さいね」
「ム。そう見えてしまったか。スーツの生地の厚さを確かめただけなのだが」
「あ、そうなんですか?」
 どれどれ? と真宵が手を伸ばすより早く、成歩堂はソファの背もたれにかけていた上着を突き出す。
「こっちにしてよ。布は同じなんだから!」
「ちぇ〜」
 つまらなそうに口を尖らせて上着に触った真宵は、嫌そうに顔をしかめる。
「触っただけで暑くなるよ」
「大げさだなぁ。そんなに変わらないだろ?」
 笑いながら真宵の袖を摘んだ成歩堂の顔が強張った。
「えっ、薄い…」
「そりゃそうだよ。夏用だもん」
「おおかた、年中同じ服だと思い込んでいたのだろう。デザインが同じでもそうとは限らないのだよ」
 成歩堂は偉そうに言い放った幼馴染をちらりと伺い見た。
『いつも同じデザインの服』なら御剣だってそうだ。この暑さの中、上着も脱がず、ベストにひらひらまでつけたまま、と言うことは−−。
 手を伸ばしたのは真宵と同時だった。
「みつるぎ検事の服、薄っいですねー」
 袖口を摘んだ真宵が感嘆の声を上げる。
「ム。夏服だからな」
「うぅ、負けた…」
「勝ち負けの問題ではないと思うのだが」
 2人が生産性のない会話をしている間、成歩堂は言葉もなく御剣の服を触っていた。
 薄い。スーツもベストもシャツもヒラヒラも。真宵の着物も薄かったが、御剣のはそれ以上だ。下の服が透けそうな程なのに実際はそうではないのは、相当材質が良いからなのだろう。
「…………。」
 御剣の眉間に小さく皺がよった。不機嫌そう、というよりどこか困った風なのは、原因が原因だからだ。
 2人の会話も聞こえないほど、成歩堂は無心に服を触っている。
 服、というか、御剣の胸元を。どこか落ち込んだ様な顔付きで。
 成歩堂の行動も理由も表情の訳も分かってはいる。それでも、いつになく沈んで淋しそうな恋人に、妙な気が起きそうになる。
 止めさせれば良いだけの話なのだが、成歩堂から触れてくることはあまりないので、もったいないと思ってしまうのだ。
「あー、急用を思い出しちゃったー」
 あからさまな棒読みで呟いて、真宵が立ち上がる。
「みつるぎ検事、あたし達、今日は帰りますねー」
 聞いてないみたいだから、なるほどくんに伝えて下さいね。
 にんまりと人の悪い笑顔で、真宵は部屋を出て行った。入れ替わりで、お盆にシューアイスを山と盛った春美が顔を出す。
「みつるぎ検事さん、アイスありがとうございます。お持たせですが、召し上がって下さいませ」
「アイス?」
 成歩堂の意識が服からそれた。
 良かった様な、残念な様な、複雑な気持ちで御剣は春美からお盆を受け取る。
「どうぞ、ごゆっくり」
 にっこりと全開の笑顔に裏はないと信じたい御剣だった。



「ぼくだって、好きで今頃このスーツを着てる訳じゃないのにさ」
 シューアイスを食べながら、成歩堂はブツブツと文句を言う。
 アイスの種類を確認しながら、御剣は軽く頷いた。
「仕方ないだろう。最近、依頼人もご無沙汰だった様だからな」
「お金が理由じゃないよ!」
「ム。違うのか?」
 素で問い返した御剣を、成歩堂は思い切り睨み付ける。
「サイズが合うスーツが見つからなかったんだよ!」
「そうか。君は一般男性に比べて体格が良いから大変だな」
 自分より更に体格の良い御剣に他人事の様に同情されて、成歩堂は完全にヘソを曲げてしまった。
 アイスをいくつかわし掴み、御剣に背を向けて座り直した。
「行きつけのテーラーがあるお前なんかに、ぼくの苦労は分からないよ」
「? そうだな」
 御剣は成歩堂の後ろ髪に手を伸ばした。汗のせいか、いつもより少し納まりの良い髪を指に絡める。
 御剣の指は冷たくて心地良かったが、機嫌が悪いのをアピールするために頭を振って払った。
 払っても払っても伸びてくる指先に、先に根負けしたのは成歩堂の方だった。
 御剣の好きにさせてやりながら、手にしたシューアイスを片っ端から頬張る。
「そういえば、新しく入ったという生地の中に、君に似合いそうな青いものがあった。1着仕立ててみるか?」
「事務所の家賃も厳しいのに、お前の行きつけの店で服なんか作れる訳ないだろ!」
 モゴモゴと答えると、背後で苦笑いする気配がした。
「そのくらい、出してやるさ」
 魅力的な申し出だったが、成歩堂は首を振った。
「良いのに慣れちゃったら、秋から吊しの服が着れなくなるからいらない。それに、お前に服を買ってもらうと、ヒドイコトされるし」
「ム? なんのことだ?」
 分かってない御剣のために言葉を重ねる。思い出すと顔が熱くなるので、なるべく感情を込めない様にして。
「この間、浴衣を買ってもらった時だよ。『男が服を買ってやるのは−−』とか言いながら好き放題したの、もう忘れたのか?」
「−−−−。」
 あんなにしつこかった指が離れていく。
 不思議に思った成歩堂がそっと背後を伺うと、御剣は固い表情で視線を落としていた。
「あれは−−浴衣姿の君を抱いたのは、君にとって『酷いこと』だったのだな…」
「えっ…」
 深く落ち込む御剣に成歩堂は慌てた。
 恥ずかしくて語感が似ている言葉に置き換えてしまっただけで、正確には『スゴイコト』なのだ。
 御剣の性格を考えれば真に受けることは分かっていた筈なのに、『貴様も悦んでいたではないか』等と言われて流されると判断した自分に腹が立つ。
 クーラとアイスで正常になったと思っていたが、思考回路は正常に働いていないらしい。
 とにかく誤解を解かなくてはと焦りながら、成歩堂は上着を手に取った。暑いのを我慢して前ボタンまでしっかりとめてから、御剣に向き直る。
「や、やっぱり作ってもらおうかな、夏物のスーツ」
「そうしたまえ。今日の仕事は終わっているのだろう? 今からでも車を出そう」
 視線を合わせずに立ち上がる御剣の腕を掴んで引き止めた。
「どうした? ああ、もう先日の様な事はしないから安し−−」
 誤解させてしまったのをキスで遮る。
 一瞬固まった御剣に目を合わせて口を開いた。
「あのさ、浴衣は普段着ないし、真宵ちゃんに洗い方聞いたからどうにかなったけど、スーツは毎日着るし、クリーニングに出さなくちゃいけないから。さ、先払い、したいんだけど、その、代用品じゃ、ダメ、かな…」
 御剣と視線を合わせたまま、暑さのせいではない別の理由で、成歩堂の顔はどんどん赤くなっていく。
 御剣からの反応は、ない。
 意味が分かってもらえなかったらこれ以上なんて言おうかと泣きそうになった時、強く抱きしめられた。
 良かった、と御剣が漏らした小さな声が耳に届いた。成歩堂も背に手を回して抱き返す。
 2人はキスしながらソファに倒れ込んだ。
 御剣の手がテーブルの上のリモコンに伸びて設定温度を下げる。
「イージ・オーダなら週明けには仕立て上がる。今月の光熱費とクリーニング代も私が出そう」
 前回以上にスゴイコトされそうなだなぁと思いながら、成歩堂は御剣の首に腕を回して引き寄せた。


 

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