「ひゃんっ!」
霧人が裁判所の資料室に向かっていると、近くで仔犬の鳴き声がした。
「・・・・・仔犬…?」
裁判所の入り口付近なら有り得るかもしれないが、最奥に近いこんなところに犬が入り込むはずがない。それに、なんとなく知り合いの声に似ていなくもない気がする。
それを裏付けるように、幾分抑えた声が響いた。
「みーつーるーぎーっ!」
「騒ぐな。やかましい」
「誰のせいだよ!」
声は廊下の奥から聞こえてくる。音を立てないように近寄ると、自動販売機が並ぶ休憩スペースになっていた。
こんなところにこんな場所が…と思いながら、霧人はそっと中を覗きこむ。予想通りというべきか、ニット帽の親友と紅いスーツの検察局長が居た。
「お前、ぼくが耳弱いの知ってるだろ!」
成歩堂は左耳を押さえ、自動販売機に張り付くようにして休憩用のソファに座っている御剣を睨みつけている。怒りか、羞恥か、あるいは別の理由か、顔が真っ赤だ。
「羽虫がいたからとっただけだろう。何を怒っている」
「だからどうして、耳に息を吹き掛けるんだよ」
「ならば、手で取った方が良かったのか?」
「……よくない」
御剣の不器用さは変わらない。吹けば飛ぶような虫なら、間違いなく潰してしまっただろう。
成歩堂は耳を擦りながら、御剣の隣りに腰を下ろした。
「ごめん。ありがと」
気まずさもあるのだろう、神妙に頭を下げる成歩堂に、御剣は優しく微笑んだ。
「礼なら行動で示して頂こうか」
「君ねぇ、言葉と行動が一致してないんだけど」
成歩堂がため息を吐きながら入り口を窺ったので、霧人は慌てて身を引いた。
「心配しなくても、こんなところまで来る者は居ない」
「見つかって困るのは君の方なんだけどね」
「そんな生半可な統括はしていないから安心したまえ」
くすくすと囁く様な笑い声の後、小さな水音が続く。
霧人は踵を返してその場を遠ざかった。足音がしないように歩いている自分が無性に腹立たしい。
本来の目的地だった資料室に入り、だが過去の法廷記録を探すことはせずにイライラと歩き回る。
今からでも邪魔をしに行こうかと考えていると、廊下からカツカツと足音が聞こえた。この鋭い音は御剣のものだろう。ならば−−。
暫く待つと、ぺたぺたとサンダルの音がした。間違いなく成歩堂だ。
部屋の前を通り過ぎるのを待って、そっとドアを開ける。
暢気に歩くその背に足音を殺して近寄り、耳に息を吹き掛けた。
ガツッ
「ぐっ…!」
次の瞬間、裏拳が霧人の顔を殴りつけた。
「あれ? 牙琉、どうしたんだい?」
成歩堂は耳を摩りながら、蹲った親友を見下ろした。
「……手荒い挨拶ですね、成歩堂」
衝撃でずれた眼鏡を直しながら、霧人は怒りを押し殺して成歩堂を見上げた。
「ん? ああ、ぼく、耳が弱くてさ、反射的に手が出るんだよね」
悪びれることのない成歩堂に、怒りを通り越して殺意が沸く。手を固く握りながら、霧人は立ち上がった。幸いというか、鼻血は出ていないし、唇も切っていないようだ。
「すみません。虫がいたように見えたので」
「ああ、そうなの? さっきもいたんだよね、虫」
意趣返しに鎌をかけたが、成歩堂のやる気のない表情は変わらなかった。
忌々し気に成歩堂を見ていた我流の目が首で止まる。パーカに隠れるぎりぎりの位置に、大きな鬱血があった。
「首が赤くなっていますね。刺されたんですか?」
「ああ、そうなんだよね。意外に生き物が多いらしくてね」
跡が見えないようにパーカの襟ぐりを直しながら、成歩堂は人の悪い笑みを浮かべた。やり手と噂の検察局長に似た笑みで。
「さっきもそこに『亀』がいたよ」