『今世紀最大規模の日食』が起こる30分くらい前、ぼくは御剣の執務室を訪れた。
出迎えてくれた御剣は少し驚いた顔をした。
「なんだ、本当に来たのか?」
「なんだ、はこっちの台詞だよ。何度も行くって言っただろ」
「いや、まさか、この天気でも来るとは思わなくてな…」
入りたまえ、と部屋に通される。
ドアの正面、御剣の仕事机の後ろの窓から見上げた空は、事務所からと変わりなかった。分厚い雲が太陽を遮って、ぼんやりと光っている。
「やっぱりここでも雲ってるかぁ」
ため息混じりに言うと、紅茶を淹れてくれてた御剣が振り向いた。
「成歩堂、ここは12階だ。確かに君の事務所よりは高層階にあるが、雲の上に出るにはまだまだ高さが足りないのだよ」
「そんなの分かってるよ!」
ちょっと言ってみただけなのに、そんなバカ丁寧に解説しなくても良いじゃないか。
ブスくれてソファに身体を投げ出す。かなり乱暴に座ったのに、赤いソファは軋みもしなかった。
「成歩堂、テーブルの用意を」
「はいはい」
折りたたみの簡易テーブルをソファの前にセットする。すぐに御剣が紅茶とお茶菓子を運んできた。
紅茶はよく分からないけど、御剣の淹れるのはいつも美味しい。お菓子もいつも違っていて、その時の紅茶に合うものばかりだ。
何より、多忙な天才検事サマが最初の1杯だけは付き合ってくれるのがすごく嬉しい。
今日も礼に漏れず、御剣はカップを持ってほくの隣りに腰を下ろした。
カップを傾ける御剣の眉間に、いつもより深いヒビが出来ている。そういえば、顔色もいつもより白っぽいかもしれない。疲れているみたいだ。
普段よりだるそうにソファに座ってるのに、それがまた格好良くてドキドキするのがなんだか悔しい。
顔を上げた御剣と目が合った。何かを考えるみたいに、ヒビが深くなる。
御剣は部屋の時計に目をやって
「−−ジェット機をチャータするか?」
「なんで!?」
「何というか…物欲しそうな顔をしている。見たいのだろう、日蝕を」
うわ〜。ぼく、そんな顔してたんだ。気が付かなかったなぁ…。
いや、その前に。恋人が自分の方を見ながら『物欲しそうな顔』をしているのに、それを『日食が見たい』と判断するお前の天然さを殴りたい。ここで言い当てられて困るのはぼくの方だけど、取り敢えず。
日食が見たいか、と聞かれたら、そりゃ見たいけど、それは世間でこんなに盛り上がっているなら御剣と一緒に見てみたい、程度のミーハーなもので、間違っても飛行機をチャーターするほどじゃない。
しかも、セスナじゃなくてジェット機!!
ツッコミどころが多すぎて何からツッコむべきか迷っているうちに、御剣はどこかに電話をかけようとしている。
「いやいやいや、大丈夫だから! そこまでするほどのことじゃないから!」
「そうか? 遠慮することはない」
遠慮とかそういう問題じゃないだろう! と思ったけど、それだけじゃ御剣を納得させられない気がして。ぼくは脳みそをフル回転させて言い訳を探した。
「ほ、ほら、ぼく、高いところダメだから」
「…そうか」
携帯はテーブルの上に置いたけど、まだ納得しきれていない顔をしている。
じゃあ、もう1つ。
「ぼくさ、アレが見たかったんだよ。ほら、小学校の時の理科の資料集に載ってた、黒い太陽の端が1箇所だけ光ってるヤツ」
「−−それは Diamond Ring のことか?」
日本語の中に滑らかな外国語が混ざったけど、簡単な単語だったからぼくにもなんとか聞き取れた。
「うん。確かそんな感じの名前だったよ」
頷くと、御剣は苦々しく指で額を押さえた。
「それは、皆既日蝕の直後のみ発生する現象だ。この周辺は部分日蝕だから見ることは不可能だ」
「あー、うん。そうらしいね」
この国でも南の端では見れるらしいけど、さすがにジェット機を飛ばしても間に合わないだろう。
御剣は大きく溜息をついて、ソファに深く座り直した。紅茶を1口飲んで、また息をはく。
ジェット機チャーターは諦めたみたいだ。
御剣の気持ちは嬉しいけど、ぼくの望みはもっとささやかなんだ。御剣も『完璧をもってよしとする』タイプだから、なかなか分かってもらえないけど。
そんなことを考えているうちに、御剣がティー・セットを持って立ち上がった。お菓子は殆ど減ってないけど、ぼくのカップはとっくに空だ。
休憩時間は終わってしまったらしい。
空にはしぶとい雲が頑張っていて、晴れる気配もない。
御剣と一緒に日食を見たかっただけなのに、なんかバタバタしただけで終わってしまった気がする。
それでもまだ帰る気になれなくて、ぼんやりとソファに座っていたら、紅茶のいい匂いがした。
机に向かって仕事を再開したと思っていた御剣が、新しく紅茶を淹れている。
「仕事、いいのか?」
「時間は作っておいた。あと1杯くらい問題ない」
「そっか」
それでそんなに疲れた顔をしてるのか。
こっちが無理に取り付けた約束だったのに。来ないと思っていたって言ったくせに。
「成歩堂」
「なに?」
「あと26年待ちたまえ」
「−−なにを?」
紅茶を持ってきた御剣は、すごく真面目な顔をしている。
つられて、ぼくも背筋を伸ばして座り直した。
「26年後には、この国のこの地域で皆既日蝕が起きる。その時は一緒に−−」
−− Diamond Ring を見よう。
ああ、本当に。きみってヤツは。
ぼくがなんとなく口に出したことでも、君はあっという間にそれを叶える道を探し出してくれる。
『ダイヤモンド』なんて言葉が入っているせいか、なんとなくプロポーズされた気分にもなって、すごく顔が赤くなった。
でも、嬉しくてうれしくて。御剣が持っているのが熱い紅茶じゃなかったら、ぼくはきっと抱きついていた。
「明日、真宵ちゃんに頼んでおくよ。今から晴れるように祈願しておいてって」
霊媒師の真宵ちゃんに祈祷が出来るかは分からないけど。
そう言ったぼくを、御剣は法廷でやる様に見下ろした。目の奥が笑ってるから全然気にならないけど。
「それより、飛行機に乗れる様、高所恐怖症を克服したまえ」
今度こそ本当に飛行機をチャーターしてしまいそうだ。
まあ、いいや。時間はたっぷりあるんだから、少しずつ決めていけばいい。
「御剣、乾杯しようよ」
「ム。何にだろうか?」
「もちろん、26年後の約束に、だよ」
御剣はカップを持ったまま、器用に肩を竦めた。
「そんなことに意味があるとは思えないが」
それでも、ぼくの方にカップを差し出してくれるから。
中の紅茶がこぼれない様に、そっとカップを触れ合わせた。
「かんぱーい」
「ああ」
美味しいお菓子と2杯目の紅茶。隣りには御剣が居て、遠い未来の約束をして。
けっきょく日食は見れなかったけど、すごく良い日だった。