「さようなら」
そう言われて、車のドアを開けようとした手が止まった。
今日は仕事帰りに待ち合わせをした。御剣お勧めのお店でご飯を食べて、バーでちょっと飲んで。話し足りなかったけど、喫茶店に寄るのは止めてアパートの前まで送ってもらった。
だから、ここで『さようなら』と言われても何もおかしいことはない。
でも。
いつもなら『では』とか『またな』とか言うじゃないか。アパートの前まで送れないときは『気を付けて』。出張の前には『元気で』。裁判を控えているときは『法廷で』。
『さようなら』とか言われたことなんてない。
「どうした、成歩堂?」
動かないぼくに、御剣が不思議そうに声をかける。
別に深い意味はなさそうだな。考えすぎか。
「ううん。なんでもないよ」
今度こそドアを開けた。
「さよなら」
車から降りようとしたら、腕を掴んで引き戻された。勢いでドアも閉まる。
痛いと文句を言う間もなく、御剣が身を乗り出した。中途半端だったのか点いたままのルームランプの下で、御剣は怖いくらい真剣な顔をしている。
「何かあったのか?」
「え? 何もないけど?」
「では何故そのようなことを言う」
そのような、って何だ? 今ぼくが言ったことっていったら−−。
「もしかしなくても『さよなら』?」
「そうだ。今まで帰り際にそんな言葉を使ったことはないだろう」
そうだったかな? 自分じゃ分からないけど、御剣が言うならそうなんだろう。
「特に理由なんかないよ。お前に合わせただけ」
「私、に?」
御剣は戸惑ったように眉をよせた。
「そう。さっきぼくに言っただろ」
「ム」
眉間のヒビが深くなる。やっぱり無意識だったみたいだ。
御剣は少し考えて、何か思い当たったのか、気まずそうに口元を歪めた。
「君をこのまま帰したくはない、と。そう思っていた」
「へ?」
「すまない。迷いを断ち切るつもりで、無意識にそのような言葉を選んでしまったのだろう」
思いも寄らないことを言われて、思わずマジマジと見返してしまった。それをどう受け取ったのか、御剣はぼくから微妙に視線をずらした。
「分かっている。君も珍しく忙しいようだからな。意味深な言葉で引き止めて悪かった」
「珍しく、は余計だよ」
そう口をとがらせたけど、あながち間違いじゃない。
明日はまだ平日で、めずらしく弁護相談の予約が入っている。真宵ちゃんも春美ちゃんも事務所に来る予定だから、朝から夕方までいろんな意味で忙しくなりそうだ。
御剣だって、明日は午前と午後、別の案件で法廷に立つって言ってたし。今日は久し振りに定時で帰れただけで、相変わらず忙しいらしい。暫く見ないうちにちょっと痩せた気がするし、早く帰ってゆっくり休まないと。
頭では分かっているのに、車を降りる気になれない。
「なにあやまってるんだよ」
半分以上八つ当たりで御剣を睨みつけた。
「ぼくだって、もっと一緒にいたいって思ってるんだからな!」
『さようなら』なんて、誰でも普通に使う言葉に違和感を見つけてしまうくらいに。
「成歩堂」
御剣が手を伸ばした。大きな掌が優しく頬を撫でる。
「責任を持って、明日朝一番で事務所まで送っていく。だから、今夜は一緒に居てくれないだろうか」
御剣の手は少し冷たかった。
そういえば、今日初めて御剣に触れた気がする。外では人目があるし、事務所にも真宵ちゃんがいたからな…。
しみじみしていたのを迷っていると勘違いしたのか、御剣が顔を寄せてきた。
「心配しなくても、ちゃんといつもより優しくする」
「−−…っ、バカ!」
耳元で囁いた御剣の顔を手で押しやってドアを開けた。小さく息を呑んだ御剣をこっそり笑いながら、勢いよくドアを閉める。
ルームランプを消したのは赤くなった顔を隠すためだったけど、御剣が安心したように微笑んだのが目の端に映った。